電報弔電の文例 3

こんにちは。


今回も電報弔電の文例をあげていきます。


法要、慰霊祭などに向けてのものです。


・・・


『故人の三回忌にあたり、遠方から合掌させていただきます。


ご生前のご厚情、今も胸の内に脈々と生き続けております。


謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。』


・・・


『早いもので、○○様の七回忌がめぐって参りました。


ご立派な方だったと今もなお思い出されます。


ご冥福と皆様のご健康をお祈りいたします。』


・・・


『ご法要のご通知いただきました。


あいにく、所用にて参列できず、誠に申し訳ありません。


ご冥福を心よりお祈りいたします。』


・・・


仕事が忙しかったり法要先が遠方ならば、参加できないこともあります。


しかしその参加したかった思いは、電報でもしっかり伝えることが出来るのです。


気持ちだけでも伝えたいというときに電報はぴったりの方法なのです。

電報弔電の文例 2

電報弔電の文例をいくつか紹介します。


自分なりにアレンジを加えてご使用ください。


今回は、法要や慰霊祭に向けて送るものです。


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『○回忌のご法要に際し、あらためて悲しみがつのります。


ご生前の面影を偲び、遥かにご冥福をお祈りいたします。』


・・・


『故人の一周忌と伺い、悲しみを新たにしております。


お身内の方の悲しさ、寂しさはいかばかりかとお察し申し上げます。


ご法事に出席できませんが、当日は心ばかりの香花を手向け、故人を偲びたいと思っております。』


・・・


これは法事に出席できずに残念だという思いをきちんと伝えています。


弔電というものは丁寧な言葉で悲しみを伝え、かつ残された家族に対しても優しく言葉をかければなりません。


例文を参考に、ぜひご自分の思いを織り交ぜた弔電をつくってください。

電報弔電と日本人スパイ 2

電報弔電の歴史について紹介します。


ハワイ総領事館には外務書記生森村正が勤務していました。


彼こそ真珠湾の日本人スパイで、本名は海軍少尉吉川猛夫です。


彼は軍令部第三部(海軍諜報部)に在職していました。


当時、海軍は真珠湾攻撃の構想を練っていたので、最新の真珠湾軍港の情報を得るために昭和16年3月、ハワイ総領事館に外務書記生として派遣されました。


彼の任務を知る人は、ただ喜多総領事一人だけでした。


森村は砂糖きび畑にかくれては密かに軍港の様子を探り、また真珠湾の展望できる日本料理店「春潮
楼」で痛飲しては、酔いつぶれたようにして夜明けまでアメリカ艦隊の動きを調査しました。


FBI(連邦捜査局)に悟られなように注意し、カメラやメモを使用せず、情報はすべて頭の中に記憶して暗号に組み、ホノルル総領事の名で東京の外務省に情報を送りました。


その情報は海軍軍令部を経て船橋送信所の大アンテナから、(A)情報として全日本の艦隊にむけて暗号弔電電報で送信されました。


しかし、これらの暗号電報はすべてアメリカ陸・海軍省では解読されていました。


これらの情報は、船橋無線送信所の大アンテナから日本艦隊に暗号電報で送信されました。


12月5日、空母レキシントンは、ミツドウェーに送る陸軍戦闘機を積んで真珠湾を出港しました。


アメリカの2隻の空母は、日本の機動部隊とほとんどすれ違うようにして、真珠湾から姿を消しました。


この空母を逃したのは日本海軍にとって不運でした。


NHKの短波放送の終わりにはまだ「山川草木……」の吟詠がながれていましたが、日米交渉はすでに破綻に瀕していました。


12月1日の御前会議で異議なく、


「一一月五日決定ノ『帝国国策遂行要領』二基ヅク対米交渉ハ遂二成立スルニ至ラズ。帝国ハ英米蘭二対シ開戦ス」


・・・と決定し、2日に「ニイタカヤマニノボレ 一二〇八」の指令が無電で発信されたのです。

電報弔電と日本人スパイ

電報弔電の歴史について紹介します。


12月8日、大統領は議会に臨んで、戦争状態の宣言を要請し、日本の「騙し討ち」と非難しました。


アメリカ国民は、「リメンバー、パールハーバー」を合言葉として対日戦争に団結奮起していったのです。


昭和16(1941)年11月26日、南雲司令長官の指揮する「赤城」以下31隻の真珠湾攻撃大艦隊は、エトロフ島ヒトカップ湾を出航し、太平洋へと乗り出しました。


日米交渉が妥結した場合は、途中から引き返すよう訓令をうけ、また12月6日までにアメリカに発見されるようなことがあれば、任務を放棄して帰港するように命令されていました。


艦隊の所在を察知されないように電波の発射を禁じ、送信機は封印されました。


艦隊への連絡には、NHKの海外向け短波放送の終わりに必ず「山川草木転荒涼」の詩吟が流されたのですが、それはこの詩吟が続くかぎり「日米交渉はまだ決裂していない」との暗号でした。


12月2日午後5時30分、「ニイタカヤマニノボレ 一二〇八」が全軍に打電されました。


開戦日は12月8日と決定したのです。


空母「赤城」の作戦会議では、鈴木英という若い参謀中佐が、ハワイ軍港の模様や飛行基地の様子を詳しく説明していました。


彼は軍令部から派遣された真珠湾のスパイで、数日前に帰ったばかりでした。


昭和16年10月22日、日本郵船の大洋丸はアメリカに向かって出港しましたが、その船には2人の海軍士官、鈴木英中佐と前島寿英中佐が乗船していました。


2人はホノルルの喜多総領事から真珠湾やオアフ島の軍事施設に関する電報弔電のような情報を受け取る超極秘の任務を受けていました。

電報弔電のはじまり 4

電報弔電の歴史について紹介します。


明治後期の電信事業は日清・日露の両戦争を経て、その重要性と必要性への認識が次第に高まり、更に飛躍への気運を示しつつ大正時代に移行していきました。


大正3年、第一次世界大戦の勃発によって、わが国の産業界は空前の大活況を呈します。


電報の利用もまた驚異的な数字を示し、現有の管理組織あるいは通信施設をもってしては到底これに対処し得ることが不可能な状態を現出しました。


当時これを「電信混乱時代の到来」と評しましたが、この事態に対応し、7年8月1日、現業機構に対して大幅な改正が行われました。


この結果、当局の分課は、監査課、内国通信課、外国通信課受付配達課及び庶務係と一躍四課一係に拡充整備されることになりまし。


また、その後関東大震災による局舎の焼失あるいは新局舎建築等があって、これらの事態に即応して管理組織も幾度となく変遷を重ねます。


しかし、このころは、科学的管理方式の採用が強く唱えられはじめた時代で、当局の管理組織も新局舎移転を契機に経営体制も著しい躍進を示しました。

電報弔電のはじまり 3

電報弔電の歴史について紹介します。


明治43年4月1日、官制改正により再び東京中央電信局として独立し、分課組織は通信課、受付配達課及び庶務掛の二課一掛となり、従来の第二次合併時代における掛制が課制に変更されるとともに、職制は次のように改められました。


つまり、局長の下に、通信課については主幹3名が配置され、課内の部制は第二次合併時代における電信掛をそのまま踏襲。


各部に対する主事配置は3名あて、ただし調理部及び外信部については1名あてとしました。


受付配達課については課長を置き、課内は受付部及び配達部の二部に区別し両部共通をもって主事3名を配置しました。


更に庶務掛については、従来の主事に代り再び掛長制が採用されています。


分掌事項については電信課時代と特別な変革はありませんでした。

電報弔電のはじまり 2

電報弔電の歴史について紹介します。


主事については、庶務掛主事以外に各部に3名の基準をもって配置しました。


ただし、調理部については1名、また外信部については主事に代り、主任3名(グワム線主任とも称す)を配置(旧浩革誌)しました。


これは当局限りの措置で主任制度の始まりでもありました。


なお、このときには受付配達掛に主事が配置された記録はありませんが、中央電信局時代に置かれていた経緯からみて、おそらく今回の機構改正後も配置されていたものと思われます。


42年2月、「課内を更に五部に区画して各部に主任を置き、主幹をして之に当らしめ其の主管責任を明かにす」として「内信第一部-三階機械室全部、内信第二部-二階機械室一部、外信部、欧文海外和文検査共、検査部を除く、受付配達部の五部に区別した」と佃沿革誌に記録があります。


この管理方式は、現今における部制に通ずるものがあります。


また同年12月、兜町に当局の分室が設置され受付配達掛に所属しました。


なお、この時代における分掌事項は、第一次中央電信局時代とほぼ同様で大きな変革はありませんでした。

電報弔電のはじまり

電報弔電の歴史について紹介します。


明治36年12月5日、官制改正により再び東京郵便局と合併し、同局電信課となりました。


これに伴い管理組織は再び縮少され、課内は、電信、受付配達及び庶務の三掛となります。


この掛制は第一次合併時代を踏襲したものでした。


また、部制については電信掛に限り施行し、第1部から第7部(第2部は39年2月、部の再編成の際欠部、第7部は同年2月21日再設)及び、検査部、外信部並びに調理部の10部に区別されました。


職制については、第一次合併時代におけるような掛長制が廃止されます。


そして、電信課長の下に、電信掛については主幹3名、受付配達部については主幹1名。


庶務掛については、新たに主事が配置されその統括にあたることとなりました(明治38年2月28日二等郵便局分課規程一部改正」)。


しかし同年10月31日、主幹の配置基準が改正され主幹は電信課に4名となり、掛別配置制度が廃止されて総合管理上に大きな利便が与えられるに至ります。


しかし、39年8月1日、更に7名に改定されました(公達第407号一等郵便局分課規程一部改正)。

弔辞、電報弔電の原稿を作る前に

●恩師への弔辞、電報弔電なら

追慕と感謝の真情にあふれたものでありたいものです。

故人から教えられたこと、それがどのように自分の中で生きているか、など、具体的に語ります。

故人との直接の会話、故人と共にした行動などを通して語るのもよいでしょう。

もちろん、どんなに親しくても、礼儀正しい謙虚な態度が基本であることはいうまでもありません。


●先輩への弔辞、電報弔電なら

学生時代のスポーツのコーチ、先輩、部活動の先輩など、恩師よりはもっと近しい、肌と肌とのつき合いを通して指導を受けたというような間柄では、親愛の情もあつく、思い出も深く、悲しみもひとしおです。

具体的なエピソードも加えて、その人柄を語ります。

忌み言葉は避ける

なお、さまざまな儀式につきもののように、葬送の儀式にも忌み言葉があります。

こんな悲しいことは二度と繰り返したくないという気持ちから、「再び」「重ねる」「また」というような、二度とあることを連想させる言葉や、「ますます」「いよいよ」といった重ね言葉を忌避するのです。


・忌み言葉の例・

また、再び、再度、再三、もう一度、再三再四、重ねて

追って、かえすがえす、かさねがさね、たびたび、じゅうじゅう

いよいよ、ますます、皆々様

・・・などです。


また、弔辞や電報弔電を読み上げるときには、情感をこめてゆっくり話すことが大切です。

弔辞では書かれたものを読み上げるわけですが、死を悼み、悲しむ気持ちをこめて、故人に話しかけるようなつもりで、時には「間」を入れながら一語一語ゆっくり読みます。

感情に走りすぎないことも大切です。

また、棒読みにならないように適当に抑揚をつけますが、かといってあまり詠嘆調にならないようにします。